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(対談する作家・大城立裕さん㊨と社会学者・開沼博さん=那覇市で)
大城立裕さんと開沼博さんの対談が終わろうとした時、開沼さん が興味深い歴史年表の見方を示してくれました。終戦の一九四五年 から今年で六十六年。終戦から逆に六十六年さかのぼると、一八七 九年、明治政府の琉球処分によって沖縄県が置かれた年です。 《2011年8月14日東京新聞特集記事「戦後66年 沖縄、福島の苦難」 から一部引用》 1879年4月 沖縄県設置(琉球処分) ↑ 66年 1945年8月 終戦 ↓ 66年 2011年3月 福島第一原発事故 【琉球王国、9つの遺産群】 約450年間にわたり、日本の南西諸島に存在した琉球王国の遺産群、 「琉球王国のグスク及び関連遺産群」は、2000年に世界遺産(文化 遺産)に登録されました。都合9つです。 1;今帰仁城跡(なきじんじょうあと) 今帰仁村 関連記事⇒九年母(くにぶ) 2;座喜味城跡(ざきみじょうあと) 読谷村 3;勝連城跡(かつれんじょうあと) うるま市 4;中城城跡(なかぐすくじょうあと) 中城村 5;首里城跡(しゅりじょうあと) 那覇市 6;玉陵(たまうどぅん) 那覇市 7;園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん) 那覇市 8;識名園(しきなえん) 那覇市 9;斎場御嶽(せーふぁうたき) 南城市 幾つかのサイトなどで写真を拝見する限り、昔日の姿を偲ばせる その他の遺産群に比して、復元された真紅の首里城は目立ち過ぎの ように、私の目には映ります(が、実際に見ないことには早計かも知れ ませんね)。 地元の皆さんはどの様にお感じなのでしょうか…。 ★・・・・・・・……─────── さて、琉球王国の遺産群とは離れます。 沖縄に触れる際に欠かせない「祖国復帰の運動」について一つだけ ご紹介させていただきます。 少々熱い文章ですが、辛抱してお読みください。 (「祖国復帰闘争碑」沖縄本島最北端・辺戸岬 碑文は、祖国復帰協議会第3代会長の桃原用行氏が起草し、 同じく第6代事務局長だった仲宗根悟氏が揮毫したものです) 全国のそして全世界の友人へ贈る 吹き渡る風の音に 耳を傾けよ 権力に抗し 復帰をなし遂げた 大衆の乾杯の声だ 打ち寄せる 波濤の響きを聞け 戦争を拒み 平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ ”鉄の暴風”【注a】やみ 平和のおとずれを信じた沖縄県民は 米軍占領に引き続き 一九五二年四月二十八日 サンフランシスコ「平和」条約第三条により 屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた 米国の支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した 祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声は 空しく消えた われわれの闘いは 蟷螂の斧【注b】に擬された しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯であることを信じ 全国民に呼びかけ 全世界の人々に訴え た 見よ 平和にたたずまう宜名真の里から 二七度線【注c】を断つ小舟は船出し 舷々合い寄り【注d】勝利を誓う大海上大会【注e】に発展したのだ 今踏まれている 土こそ 辺戸区民の真心によって成る沖天の大焚火の大地【注f】なのだ 一九七二年五月十五日 沖縄の祖国復帰は実現した しかし県民の平和への願いは叶えられず 日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された しかるが故に この碑は 喜びを表明するためにあるのでもなく ましてや勝利を記念するためにあるのでもない 闘いをふり返り 大衆が信じ合い 自らの力を確かめ合い決意を新たにし合うためにこそあり 人類が永遠に生存し 生きとし生けるものが 自然の摂理の下に 生きながらえ得るために 警鐘を鳴らさんとしてある 鉄の暴風【注a】 太平洋戦争末期に沖縄が、約3ヶ月にわたって 受けた米軍の艦砲射撃や空襲を表すたとえ。 蟷螂の斧【注b】 (読み:とうろうのおの)《カマキリが前あし を上げて、大きな車の進行を止めようとする意から》弱小のも のが、自分の力量もわきまえず、強敵に向かうことのたとえ。 二七度線【注c】 復帰するまでは北緯27度が国境でした。 舷々合い寄り【注d】 船の縁(へり)と縁とを近づけてという意味。 大海上大会【注e】 年に一度、辺戸岬と与論島 との間(北緯27度 の海上)で、本土との交流集会が行われていました。 沖天の大焚火の大地【注f】 《一番近い日本=与論島に向けて祖国 復帰への想いを》篝火を焚いて発信したのがこの場所でしたと いう意味。 この「祖国復帰闘争碑」が建立されたのは復帰から4年後の1976年 でした。4年を経過する中で、「祖国へ復帰することによって、米軍 基地の重荷が多少なりとも軽減され、本土並みの人権回復がなさ れるだろう」という沖縄県民の希望は、日米両政府によて見事に裏 切られたことが明確になりました。裏切りと、その裏切りへの怒り を記憶に留めるためにこそ、この碑は建てられました。 「沖縄同胞の心情を人ごとと思わず、小指の痛みは全身の痛みと 感じとってください」これは、1969年2月、衆議院予算委員会の公聴 会で、祖国復帰協議会会長の喜屋武真栄が語った言葉です。 私たち、本土(都会)の人間が、沖縄(福島)から学ぶべきことの 核心は、この言葉のように思うのです。 by MO
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| 2011-08-19 09:09
| 輝け!憲法9条
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