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【市内にある戦争の痕跡(9種)】
年初めに、市内にある「平和」がつくもの をご紹介しましたが、今回は戦跡です。 地元の諸先輩が調査されたところを勉強しました、市内にある戦争の痕跡は 9種ありました。 これらは、たった!62年前の出来事です。 1◆空襲被害 1945(S20)年 7月16~17日に かけての、隣町 平塚大空襲のとき、 茅ヶ崎も焼夷弾に よる被害が多数 出ました。 市史によれば、 1000発を超える 焼夷弾が落とされ、 被害は554世帯・ 1285人に及び、 182軒の住宅が 焼失したとされて います。 東海岸南の中村邸の天井の貫通痕は今も保存されています。 2◆死傷者 死傷者は前記の平塚大空襲時が最多で、市史によれば22人と記されています。 それ以外にも、同年2月16日・7月30日・8月13日に艦載機の機銃掃射によって 少なくとも10数人の死傷者があったとされます(が確認が未了です)。 3◆軍用地下壕 戦争末期、日本軍は米軍の相模湾上陸を予測して、海岸地帯に掩蔽壕・蛸壺・ 防空壕などが、また北部の丘陵地帯には横穴式の地下壕が高射砲や機関銃 陣地として無数に掘られました。下寺尾の臼井邸に今も地下壕が保存されて います(他にも、堤の山本邸・吉田邸・芹沢の安藤邸など)。 あの米海軍太平洋艦隊に対するには、(残念ながら)何れも余りにも お粗末なものばかりです。 4◆軍事演習地 現在の汐見台から辻堂浜見山交差点辺りまでの一帯は海軍の演習地として、 また現在の浜須賀小学校から茅ヶ崎ゴルフ場の一帯は海軍機の射爆訓練地 として使用されていました。 5◆地上軍事施設 国道1号線から南側の各地に、レーダー・砲台・砲座・高角(射)砲・聴音機・ 照空灯などの地上軍事施設が建設されました。また、現在の高砂緑地内の 旧原別荘に歩兵連隊の本部が設置されました。2001年にも工事現場から 高射砲の砲弾と思われる不発弾が見つかっています。 6◆兵舎 現在の松浪中学校付近に1棟200坪もある木造兵舎10数棟が応急に建てられ たり、南湖院(現在の太陽の郷辺り)の一部が兵舎に徴用されたりしました。 7◆軍需工場 終戦直後に撤退、消滅した工場等があり、現在では正確な把握は困難(市史) とされていますが、多くの軍需工場が存在していました。例えば、松下蓄電池・ 東海電極・東洋陶器・大日本塗料・日東製作・東京計器・田中精麦・東都製鋼・ 日華航空・茅ヶ崎製作(特攻機「桜花」を生産)・東洋カーボンなど…。 8◆学徒勤労動員 1944~1945年にかけて、前記の東京計器に仙台市の高等女学校の生徒が 学徒勤労動員として働いていました(他にもあったと思われますが不明です)。 9◆学童集団疎開 1944~1945年にかけて、旧茅ヶ崎町及び小出村は、横須賀の浦賀国民学校 の300余名・追浜国民学校の230余名を地元の寺社に受け入れました(この 部分は記録が比較的明瞭です)。その一方、茅ヶ崎の白十字会林間学校は 新潟県に60名を疎開させています。 平塚大空襲時の体験談のひとつををご紹介します(当時東海岸に住まわれていた 1920年生れの女性の手記から一部を引用させていただきました)。 ********** 転載はじめ ********** …雑音の多いラジオで何とか平塚方面の 空襲の報を聞いたが、どうしていいか分から ない。祖母は観音経を唱えている。 …やがてシューッという音と共に辺りは昼の 明るさとなった。数発の照明弾が落とされた のだ。驚く間にすぐ傍らの襖が燃え上がる。 汲み置きの水をかけたが却って火勢は増す ばかり、次の間の襖も燃え上がったので、 身重の身としてはもはやこれまでと祖母と 手を取り合って芋畑の方へと逃れた。一瞬 の間に新婚の家も家財も灰となり無一物と なってしまった。 実家へ辿りつくと両親や弟妹によって消火さ れた家は、何とか無事でほっとした。 次の日の夜、東京から帰宅した夫はとても 明るく救われた思いがした。一夜明けて 職場に戻る夫は見送る私に小さな紙切れを 渡した。それには 《 妊(みごも)れる 妻を残して 火に曝(さら)す 男(お)の子の務め 悲しかりけり 》 という一首が書かれてあった。 ********** 転載おわり ********** 尚、市内に残る米軍占領の痕跡については茅ヶ崎出身の芸能人で触れた ”烏帽子岩”を、また、ラチエン通りストーリーで取り上げた”茅ヶ崎C31ハウス”を、 ご参照ください。 by MO
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| 2007-03-20 09:09
| 地元・身辺ねた
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