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昔、地元に…、
「件」の小学校があったこと自体は、私も数年前から知ってはいました。 …が、その小学校が目指したものや、場所が何処にあったのかなど、 具体的な内容については勉強不足のため曖昧なままでした。 最近、糸がほぐれる様に輪郭を知ることが出来ましたので、ご紹介します。 【九丁九反歩(地元の昔の地名)】 《図1》 私の現住所の地名は、今(昭和42年以降~)は茅ヶ崎市「ひばりが丘」と いいますが、その前(大正末期以降~)は「菱沼」でした。 最近になって、もっと昔(明治初期以降~)は「九丁九反歩」と呼ばれて いたことを知りました。 その明治初期の小字名には、その九丁九反歩の他にも一本松・六斗蒔・ 八王子原・十間坂・十二天など興味深いものが幾つか見えます(夫々の 謂れはいつの日か時間ができたら調べてみたいと思います)。 ☆「茅ヶ崎市史」第2巻 資料編(下)近現代 67~69p 何故か、西東京市や札幌市にも「ひばりが丘」があるようですが…、 地元茅ヶ崎市の「ひばりが丘」が何に由来するのか??? その由来と思しき有力な史実は、この地域に大正末期~昭和初期にか けて「雲雀ヶ岡小学校」という私立の小学校があったことです。 発音は同じでも、字は別物でした(ひばり⇒雲雀、が⇒ヶ、丘⇒岡)。 ***ここから***************** 大正十四年、上田庄三郎は、雲雀ヶ岡小学校の経営にあたった。上田 は高知県立師範学校卒業後、同県内で小学校訓導・校長を約十年間 勤めたが、「教育ノ自由ナル研究ノタメ」を目的に上京した。そして「第三 の児童の村」といわれた私立雲雀ヶ岡小学校の創立に携わった。当時、 付近は人家がまばらであって、わずかに新興住宅があるにすぎなかった。 学校はここの土地開発会社の出資経営であって、開設後も学校施設は 不備であり、その上教員は上田だけであった。この条件下ではたとい 児童が二十名足らずとはいえ、編成は全学年混合であり、しかも指導上 の困難が多く、上田の理想実現には至らなかった。昭和二年、財政的 困難も加わって閉校に追い込まれ、ついに彼もここを辞した。(後略) ☆「茅ヶ崎市史」第2巻 資料編(下)近現代 645p 雲雀ヶ岡小学校教員・全校生と父母↑ 《注a》 ☆「(市史の一部)写真集茅ヶ崎きのうきょう」127p (前略)雲雀ヶ岡小学校は、(中略)この後、自由主義教育の全国的なリー ダーの一人となる上田庄三郎が、その理想実現のため経営にあたった 学校であった。期間は短かったが当地域の小学校とは交流もあり、お互い に影響しあったものと思われる。(後略) ☆「茅ヶ崎市史ブックレット」⑨ 近代茅ヶ崎の群像 23p ┏ ┃一九二五年=大正十四年 ┃九月八日 火 晴 ┃ ┃午前九時から開校式。児童十三名入学。付添の父兄は母ばかり。 ┃式は、簡単に、(1)設立者の挨拶、(2)校長の教育上の方針細説、(3)子 ┃供に学習上の注意、(4)一般茶菓、(5)童話(欲ばり坊さん)、(7)記念撮影 ┃(大井写真館)で十一時過ぎまでかかる。児童も父兄も皆満足している ┃ように見受けられた。 ┃丁度オルガンが運ばれた。早速出してひいて見ると中々よく響く。まだ ┃今日も屋根にとたんを張るものもあり、壁にペンキを塗るものもあり、 ┃創業気分のごたごたがなつかしい。 ┃ * ┃昨日七枚のビラを掲げた(辻堂、藤沢、茅ヶ崎に)。 ┃ 剛健にして活動にたゆる肉身の創造を主とし、児童の個性天分の ┃ 自由なる伸展を極度に愛護し、児童内発の自学自研により自然に ┃ して家庭的創造生活本位の少数自由教育を行う。(後略) ┗ ☆「雲雀ヶ岡小学校教育日録」上田庄三郎 ◆父上田庄三郎と茅ヶ崎 私は、昭和2年3月9日、神奈川県茅ヶ崎町雲雀ヶ岡で生まれた。母の話 によると、姉2人につづいて初めての男の児だったので、父は大変喜んだ。 そして地名にちなんで「雲輔」と名付けた。母は父と結婚して以来はじめて 父に反対し「この子が大きくなったら、クモスケではあまりにも可哀そうだ」 と言い、珍しく父が折れて 「耕一郎」となった。農民に ちなんだという。 弟の不破哲三は本名が 「上田建二郎」で建築労働 者にちなんだという。 「労農同盟のつもりじゃ」と 父は自慢していた。(後略) ☆「茅ヶ崎革新懇記録集 第3集」7p 上田耕一郎 (寄稿) ◆型破りの先生だった父 (前略)手を焼いた県の教育 当局が、まだ二十歳代の父 をある小学校の校長に任命 したのです。抜擢かというと そうではなく、赴任先の学校 というのは、七年前に火事で焼けたまま、村はもう学校を建てるのは あきらめているという「校舎のない学校」。(中略)父は、そこの校長になったら 「お願い」ということはいっさい村にはしない。その代わり、自分の作詞作曲 で唄をつくって、毎日子どもたちが合唱しながら村中を練り歩くわけです。 (中略)「焼けて七年 お宮の森で けれども休まず 通いましょう 暗いさびしい お宮の森で 日が照りゃ お庭で遊びましょう」(中略) これで三年目に、ようやく学校が再建されました。 ☆不破哲三著(井上ひさし共著)「新日本共産党宣言」251p *****************ここまで*** そうなのです…著名な人々と地元との縁が浮き彫りになってきたのです。 「雲雀ヶ岡小学校」があった場所は、現在の「ひばりが丘」の南側境界に 接した現在の「旭が丘」の北端、南北は「桜道」を跨いで、東西は「懐石 柚の木~信号旭が丘」の辺りです。 何と、我が家から南に200メートルの至近距離にあったのです。 ☆「明治の気骨大正のロマン」10~11p別荘と茅ヶ崎↓ 《注b》 《図2》 (◆型破りの先生だった父) 続き その落成式での校長挨拶に、父の考え方がよく出ています。 『学校が兵営でないかぎり、 学校が牢獄でもないかぎり、 学校は子どもたちに最大の自由が認められ、 最大の創造心を培う殿堂であらねばならない。(後略)』 今また、歴史を捻じ曲げ、侵略戦争を肯定し、戦後日本の出発点を 否定する、自由社版・扶桑社版の歴史・公民教科書が、問題になって います。上庄(うえしょう)さんが生きていたら…何と言うでしょう。 by MO 《注a》 この写真の提供者は上田耕一郎さんです。校長の上田庄三郎さんは 最後列の男性5人の内の真ん中、鍬を担いでいる人です(このことは 今回不破哲三さんからお聞きしました)。 上庄さんは当時31~32歳、日焼けして精悍な面構えですね。 《注b》 茅ヶ崎の文化財を守る会・岡崎周(ひとし)さん発行の”別荘所在復元図” です。この資料は「茅ヶ崎市史研究」第31号にも採録されています。 この資料は、川添隆行さんと岡崎周さん《注c》が中心になって作成され た労作です。多くの別荘跡地とともに「雲雀ヶ岡小学校」の跡地も記され ています。 《注c》 川添隆行さん(1912~1992年)は戦前からのジャーナリストとして高名な 方でした。岡崎周さん(1926~2006年)は大正期に衆議院議員を6期務め られた岡崎久次郎氏のお孫さんで、実業家でした。 ともに地元で広範な文化・市民活動を繰り広げられました。 ─2009年7月7日追記─ 上の《図1》の「九丁九反歩」の左(西)に接し南北に通る道、 そして下の《図2》の「ラチエン邸」の左(西)に接し南北に通る道は、 ”ラチエン通り”と呼ばれています。 これについては、こちらをご覧ください⇒ 「ラチエン通りストーリー」 ─2012年1月1日追記─ コメントに書き込みがある「九丁九反歩荘」の表札があった建物 (お宅)はこれです。現在は使われていない様子です。お二階の 雨戸も昔は木製でした。
by 9collection
| 2009-06-29 00:09
| 地元・身辺ねた
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